「あいつは何も恐れちゃいない。何にも縋っちゃいない。あいつ自身の魂だけだ。 お前に愛されている、という、あいつ自身のな……」
初出1986年10月「小説JUNE」/1991年 角川スニーカー文庫 ▼内容
15年振りにエクアドルから戻ってきた山崎が、かつての恋人である春樹を探し求め、再会するまでを、過去と交錯しつつ描かれている。 大学紛争の只中に活動家の山崎と、男と寝ることで生きている15才の春樹は音楽を通して出会う。アンデスに憧憬しつつ、学生運動の闘争形態を模索する山崎は忙しさもあって、春樹を愛しながらもその魂の寂しさを理解していなかった。 ある日、山崎は逮捕される。やつあたりのように活動メンバーたちに吊るし上げられ、精神的にズタズタにされた春樹と、兄である山崎に肉親以上の感情を抱く礼子は、山崎を求める互いの寂しい心を寄せ合うように身体を重ねてしまう。ただ一度の情交で礼子は春樹の子供を身ごもってしまう。絶望と葛藤の末、春樹は礼子を刺し殺してしまうが、礼子の命と引き換えに生まれたのが夏樹だった。
少年院送致となった春樹を許すこともできず、消耗しつくしていた山崎はすべてを放棄して
エクアドルの解放戦線に身を投じるために出国する。春樹は自殺未遂の果てに精神を病んでしまうが、やがてピアノと夏樹の存在で辛うじて生に繋がっていた。 15年後の再会はまた、別れを意味していた。だが、春樹は危うい精神バランスのなかで、山崎の愛を力強く確信し、生きてゆく希望を見出すのである。
▼書評
作品を読んで最初に連想したのは、柴田翔氏の「されど我らが日々」でした(確か芥川賞受賞作品)。大学紛争という時代に翻弄される、傷ついた青春群像といった内容です。 その時代をセピア色の思い出と語りながら、若さ故の残酷さ、無情さを、清冽に描いているのが本書です。 山崎はすでに確固たる自我を持ち、将来の夢もしっかりと持っています。自分に厳しく、それ故、春樹に求めるものも二律背反の厳しさがあります。それは真の挫折を経験していないからこその強さであり、その強さは人の弱さに対して、残酷なほど鈍感にさせます。それ故、山崎は春樹の飢餓的孤独に気づくことが出来ません。理解できないといってもいいでしょう。
そして、山崎に愛されているという一点にのみ、自分の存在意義を求める春樹。出会いはすでに破滅の予感を孕んでいました。 事件の中核となる礼子は、自立した女性が台頭しつつあった時代背景を反映してします。彼女は強い女でありますが、女の残酷さを凝縮した存在として描かれています。
背徳を意識しつつ兄に恋心を抱き、兄の恋人の子供を身ごもることで勝者となった瞬間、運命は山崎に関っていた全ての人間を巻き込んで、不幸へと転がり落ちて行きます。
挫折感、罪悪感、空虚な自分、すべての感情を整理するためには15年という年月が、山崎には必要でした。若い自分を客観的に判断する目で、失ったものへの哀悲を淡々と見つめる山崎が、春樹に辿りつくのは運命の皮肉すら感じます。 それでも作者は、無条件の幸せを2人に与えません。夏樹の父親を奪うことは、春樹と同じような愛情に飢えた子供を作ることにもなりかねないという試練を与えますが、何よりも危うい存在であったはずの春樹は、それを心地よく裏切ってくれます。 山崎の愛を確信することで、ただ息をしているだけのような生き方をしてきた彼に命が甦ったとき、はじめて春樹は自我を確立したと云えるでしょう。 ひたすら山崎だけを求めつづける春樹の純情と、そういう父を慕う夏樹の心理が切なく、泣かせます。いつか――夏樹が巣だったのち――春樹は山崎を追ってエクアドルに向かう日が来るのでしょうか。「テイク・ラブ」という、2人の思い出を凝縮した春樹のメインナンバーが、作品の余韻を醸し出しています。
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