このページはなんとなく(笑)、桜を主題とした作品をまとめてあります。


桜の樹の下には 梶井基次郎
桜の森の満開の下 坂口安吾






桜の樹の下には梶井基次郎(かじい もとじろう)

梶井基次郎短編集『檸檬』収録/新潮文庫



桜咲く頃になると何となく思い出してしまうフレーズ、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」の書き出しはとても有名。この作品のせいで、今では全国津々浦々の桜にまで埋没死体が広まってしまったが、文庫本にしてたった4ページの作品である。

明日ありと思ふ心の仇桜 よはに嵐のふかぬものかは (親鸞上人)
さくら花 いのちいっぱいに咲くからに いのちをかけてわれ眺めたり (岡本かの子)

など、桜花の美しさと世のはかなさを背中合わせに詠んだ歌は数あるが、本作に描かれた満開の桜の物狂おしさは、自己の人生に一つの区切りをつけようとする不安や諦念という印象を受ける。
肉体と精神、感情と理性の分裂と交錯を描いたと云われ、「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」という命題に至る…らしい。年譜を見て驚いたのだが、このとき梶井基次郎氏は27歳―その若さで書くなよ、ンなもん…。

本屋さんで立ち読みできる短編だが、新潮社のHPで無料で読める。
爛漫の春の宵に、美しくもグロい物語をぜひどうぞ(笑)。

以下余談である。
本作、桜の樹の下には、屍体が埋まっているに違いないのだ。その血と肉を根から吸い上げてゆくからこそ、あんなに美しい花を咲かせることができる――に寄せて、
「民主主義憲法の樹の下には、戦死した若者の屍体が埋まっているに違いないのだ。その血と肉である理念を根から吸い上げてゆくからこそ、あんなに美しい花を咲かせることができる」(『私の死生観』宗左近)イラクへの思いをはせ、今年の桜はことさらに切ない。






桜の森の満開の下坂口安吾(さかぐち あんご)

初出・「肉体」昭和22年6月15日(第1巻第1号)/平1年4月・講談社文芸文庫/
平成2年・ちくま文庫坂口安吾全集5 ほか。



桜の季節も間近いので、桜にまつわる作品を取り上げてみた。
桜が咲くころになると人の心はそわそわしてくる。お花見、宴会は定番メニューだし、薄紅色の花景色は入学式に必要不可欠な背景だから、どこの学校にも一本や二本はかならず植えられている。
では、人気のない山奥にひっそりと咲く桜を想像してみよう。…いや、今どきそんな贅沢は言うまい(笑)。夕闇迫る人気の途絶えた校庭で、満開の桜花を真下から見上げてみるのもいい。まるで咲き誇る桜に吸い込まれてゆくような、それでいて妙にそくそくとした寂しさや恐ろしさを感じることはないだろうか。
桜は、日本人にとってとても身近な花でありながら、儚く散りゆく命の象徴となったり、幻想的な妖しの世界を引き寄せる。ときには死体まで埋めちゃうもんね。
さて、桜の森の満開の下にはなにがある?

主人公の山賊はむごたらしい男だったが、満開の桜に漠然とした恐怖を抱いていた。ある日、攫ってきた絶世の美女の命ずるままに女房たちを殺し、女にかしずいて暮らしいてたが、女の願いで都に移住する。女は人間の首遊びに熱中し、女の言いなりに男は首狩りするようになるが、退屈した男は山へ帰ろうと決意する。
女を背負って桜の森の満開の下にくると、女は鬼に変わり、絞め殺すと元の女だった。女の死体は花びらの中に消え、女を探して花びらを必死でかきわけているうちに、いつしか男は孤独を認識し、虚空に消え失せた――なんとも不気味で、もの悲しく、そして美しい、幽妙な物語だ。

この作品は「です、ます調」の説話形式で書かれており、その文章の持つリズムゆえに、たゆたゆと事象の中を流れてゆくような感覚がある。そして、その独特の雰囲気に呑まれたまま読み終え、ふと気づくと、作品の持つ狂的な部分が鮮烈な印象となって迫ってくる。

幽玄の中に描かれているのは「絶対の孤独」。桜の森の満開の下の鬼は、その孤独の化身と思われるが、研究者によっては非情の美を描いたものとも言われているらしい。
でも、そんな面倒なことは置いといて、安吾の描き出す透明な美や狂気――ぶっちゃけて言えば、エロ・グロ・ナンセンスの美学(きゃっ石投げちゃいやん)――なんて春の宵に味わってみてはいかがだろうか。

ところで桜といえば、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で始まる『桜の樹の下には』も有名だけど、こちらは梶井基次郎氏。いつだったか「日経」のコラムで間違って書かれていたから(後に訂正していた)、勘違いしやすいのかもしれない。こちらもエロ・グロで尚美しい。





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