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京極夏彦  きょうごく なつひこ








鉄鼠の檻 1996年1月/講談社ノベルス

3年ぶりの再読。京極堂シリーズで一番好きな作品なのに、再読するたびにレビューに挑戦しつつ挫けてしまうのは、題材とされている『禅』が、京極堂こと中善寺氏の溢れ出る薀蓄にもかかわらず、私には理解しかねること。そして読了後は、濃厚な内容と、この本の分厚さに精神的に満ち足りてしまうかららしい。

さて、物語は箱根山中に隠された大伽藍が舞台となる。今回の強敵は、京極堂がひるむほどの禅の世界だ。
寺院という結界の中で次々と殺されてゆく仏弟子たち。そのため登場人物にも僧侶が多い。当然、交わされる会話も禅(仏教)をめぐる内容となる。
私にはもちろん理解はできないが(笑)、悟りさえすればすべての煩悩が消えるものでもないらしい。悟りにも色々あるらしく、ストンと憑き物が落ちたように瞬時に悟る大悟とか、大悟すればそれで終わりでもなく、人によっては大悟や小悟が何回かあったりして、とにかく生きている限り修行に終わりはない。
もちろん禅宗にも宗派があって、ただただ座禅を組む修行もあれば、千以上もある公案を解くことで悟りに近づいていくなどがあるらしい。さらに、「悟りとは何たるか」と考えること自体が、悟りを妨げるものである…となれば、禅を頭で理解しようとすること自体が愚行であり、間違っているのかもしれない。

というわけで、ぞろぞろ出てくる禅の考案(禅問答)が凡人には理解不能なので、ちゃっちゃと読み飛ばしてしまいたくなってしまうが、殺人事件の謎はすべて考案の中にあるので、理解しなくていいから(無理だしっ…笑)、ちゃんと読むことをお勧め。いよいよ事件が終結しようとするとき、どの考案に示されていたのかを分かるために必要になる。
この京極氏の博識から噴出する饒舌な薀蓄や閑談には、いつもながら圧倒される。さらに本筋とは関係なさそうなそれらが事件の背景として巧妙に構成されている。つまり、この作品の面白みは巧妙に張り巡らされた伏線にある。焦点はトリックではないのだ。

冒頭の「拙僧が殺めたのだ」のインパクトも強いが、閉ざされた山の中で修行する僧たちの超然とした姿が崩れていくさまも面白い。そして、すでに馴染みの登場人物である榎木津の無法振りは一服のお笑いを振り撒き、毎度危うい関口もしっかりと楽しめる。
尚、この作品でのちに榎木津率いる薔薇十字団の下僕兼探偵助手として活躍することになる益田が、刑事として初登場する。京極堂一味に出会ったばかりに彼は道を踏み外すことになってしまう。その外伝『百器徒然袋』の崩れっぷりが凄まじいので、今回再読していて呆気にとられた。少々軽いとはいえ真面目で仕事熱心な若き刑事さんだったのに…いと哀れ(笑)。

以下余談。
『怪』第壱号(角川書店)所収の中沢新一氏との対談で、京極氏は自身が小説を書くにあたって「内田百閧竦ワ口信夫を意識した」と述べているのを読んで、さもあらんと頷いた。
彼の文体はどこか古色蒼然としており、作品の時代背景の雰囲気をより醸している。
無論、日本近代文学以降の翻訳体や変体漢文とも一線を画しており、あえてコントロールされた自律的な文体である。京極氏が駆使する民俗学や妖怪談義などにも、その独特な文体のリズムが大いに影響して、より読者を幻惑させる。豊潤な表現力が、京極氏の鉄面皮な世界に現実感を与えているのだろう。

2001年9月『文庫版 鉄鼠の檻』、2005年10月から『分冊文庫版 鉄鼠の檻(1〜4)』講談社文庫が出ている。






嗤う伊右衛門 1997年6月/中央公論社/第25回泉鏡花文学賞受賞

モチーフは『四谷怪談』だが、これは怪談でも怨念話でもない。恋愛小説だ。なんとも哀しく、焦れったく、これほどまでに美しく、恐ろしい物語には滅多に出会えないかもしれない。

主人公の摂州浪人・境野伊右衛門は、御先手組同心・民谷又左衛門の娘、お岩のもとに婿養子に入る。岩は病を患い、その後遺症で生来の美貌が醜く崩れているが、それを恥じることのない気丈な性格。
伊右衛門自身、その容姿にはこだわらず、結婚するまで会ったことさえなかった妻を愛おしく思いはじめる。岩もまた、しだいに伊右衛門に惹かれていく。だが、ふたりの意地の張り合いと感情のすれ違いから夫婦仲がこじれ、そこを御先手組与力の伊藤喜兵衛につけこまれてしまう。
喜兵衛の奸計に嵌った岩は夫のためによかれと家を出る。伊右衛門は喜兵衛の子を孕んだ町娘・お梅を嫁に押しつけられる。伊右衛門が幸せであることに満足し、貧しくも充実した日々を過ごしていた岩。だが、やがて伊藤の奸計を知り、岩は狂乱する――。

物語は各章ごとに設定された登場人物の視点で進行する。伊東喜兵衛をめぐる又左右衛門、岩、直助らの確執と策謀を丁寧に描いていくことで、綿密に張られた伏線が、終章に向かって交錯し、共鳴し、収束していくさまは、京極夏彦氏の十八番。でも、おそらく「京極夏彦作品」としての好みははっきり分かれると思う。『京極堂シリーズ』のイメージを念頭に置いて読むと、あまりにも方向性が違う作品なので面食らうかもしれない。

作者は伊右衛門を悪役としてではなく、運命に翻弄される理知的な善意の人としてを描くことで、人間の業の深さの恐ろしさ、そして哀しさを描いている。凄惨で重苦しく、それでいて静謐な物語である。
ラストで初めて嗤う伊右衛門』のタイトルがずっしりと意味を持つのだが、その静けさが恐ろしくも美しい。






陰摩羅鬼の瑕 2003年8月/講談社ノベルス

『塗仏の宴 宴の始末』から5年ぶりのシリーズ新刊は、『百器徒然袋−雨』で話題に出ていた「白樺湖の事件」である。でもシリーズ中の時間では『姑獲鳥の夏』からわずか1年しか経過していない。人が事件を吸い寄せるのか…いや、事件が人を選んでいるのかもしれない(笑)。
白樺湖畔に、無数の鳥の剥製で埋め尽くされた「鳥の館」と呼ばれる洋館がある。館の主人である元・伯爵の由良昴允が妻として迎えた女性は、結婚式の翌朝必ず殺されるという悲劇が続く。5度目の婚姻を前に、伯爵は探偵に妻となる人の護衛を依頼する。
その探偵が、(よりにもよって)かの榎木津礼二郎。今回の彼は目を患い、体調は絶不調。なし崩しに館に同行することになってしまった作家の関口巽は戸惑うばかり。関口の困惑を煽るかのごとく、榎木津は館に入るなり「そこに人殺しがいる」と誰にともなく宣言する。
彼らは花嫁を護ることが出来るのか、そして京極堂=中禅寺秋彦は憑物をどう落とすのか――。

本作は、シリーズキャラの関口巽、伯爵こと由良昴允、そして「鳥の館」の過去の事件に関わった元刑事伊庭銀四郎の、複数の「私」による一人称語りで構成されている。京極作品の前作にもある通り、この手法がクセモノ。つまり、わずかな言葉の齟齬や曖昧な記憶、経験や知識の誤謬を重ねて仕掛けられた心理トリックが基本にある。だから「私」が語る内容はすべて懐疑的に受け止めなければならないので、久しぶりに脳みそを使った気分だけど、もちろんそこは京極氏、そう簡単にボロはださないやね。
内容的には序盤から結構大胆に伏線が張られているので、さほど意外性は感じられない。私自身1/3ほど読んだところで物語の8割がたは想像がついてしまったし、民俗学的知識が多少あれば中盤の京極堂の会話で見当がつくだろう。しかしマルティン・ハイデッガーの「実存主義」と「儒学」という異質な思想を混ぜ合わせ、独自の理論へ導き、さらに事件の動機へと展開させていく京極氏の語り芸は相変わらず巧みだ。
作品を貫くテーマは「儒教」。その「死生観」の捉え方を絡め、実は京極氏は、作中で提議している、探偵小説はなぜ「殺人」を特別なものとして扱うのか、という問題をすくい上げようとしていたのかもしれない。こういう読み方をすると、読書空間のなかで生まれ育った特異なキャラクターもそのための道具立てになってしまうところだが、妻に先立たれた元刑事・伊庭の「死生観」と絡めることで重厚な厚味を引き出している。
そんなわけで、本作は今までの京極堂シリーズとちょっと肌触りが違う。事件そのものよりも特異なキャラの存在感の方が印象深く、このシリーズに共通する重厚かつ錯綜するような仕掛けが少々物足りない。でも、なんといってもメインディッシュは京極堂の憑き物落とし。滔々と説得され、納得させられてしまう快感がいい(笑)。

ところで私は、にぎやかしい躁探偵・榎木津さんのファンである。今回は一時的とはいえ盲目となってしまうこともあって、あまり活躍(引っ掻き回し?)の場がなかったのが残念。とはいえ、榎木津さんはどこまでいっても榎木津さん、今回はちょっとしんどそうだけど、そんな彼もいいかも〜。
ついでながら、いつもちょっとしか登場しない変態な里村監察医の隠れファン――堂々と言えない後ろめたさがあるから――でもあったりする(笑)。






百器徒然袋―雨 1999年11月10日/講談社ノベルス

救いようの無い八方塞がりの状況も、国際的な無理難題も、判断不能な怪現象も、全て
を完全粉砕する男。ご存じ、探偵・榎木津礼二郎! 「下僕」の関口、益田、今川、伊佐間を引き連れて、さらには京極堂・中禅寺秋彦さえ引きずり出して、快刀乱麻の大暴れ!
不可能状況を打開する力技が炸裂する三本の中編。――本書カバーの"ご案内"からしてわくわくさせてくれるというもの。

超絶美形な元華族であり、大財閥の御曹子にして元海軍エリート士官、喧嘩がめっぽう強く、視力と引き換えに人の記憶を見ることが出来るという異能を持つ――いや、それよりもその美貌と地位を相殺させてしまう破天覧な性格と言動といった方が正しいだろう――「神」にして「探偵」である榎木津礼一郎を柱に、シリーズオールスターキャストを、配線工事の図面引き・本島の視点で綴られている。

榎木津は荒ぶる神だ。彼の周りに集まってくる物好きは、「神」である彼にとっては「下僕」である。榎木津の行くところ、人は殴られ蹴り飛ばされ、器物は完膚なきまでに粉砕され、下僕たちが右往左往しているうちに事件は唐突に解決される。あの京極堂こと中禅寺秋彦ですら、否応なく巻き込まれ、ぶつぶつと不満を言いながらもサポートせざるを得ない立場に置かれてしまう。なんたって探偵の存在そのものが不条理なのだから、たかだか犯罪など何ほどのものかと思わされてしまう。
だが榎木津は、ただ天衣無縫で傍若無人なだけの男ではない。踏みつけられ、罵倒されても集ってしまう下僕や、あれだけの薀蓄男である京極堂が、眉を顰めながらも付き合ってしまうだけの魅力があるはず。振舞う気になれば立派な御曹司になれるところをみると、おそらく榎木津は「欠けた」人間なのではなく、常人が持たない力ゆえ、常人には分からない重いものを背負っているのだ。ことの核心だけは見えてしまうのだから、周りの人間が右往左往する様がアホらしく見えるだろう。人間関係がうざったくなってしまうのも仕方がないのかもしれない。その上、説明する労も惜しむから(面倒なのだろう、たぶん)、脇目も振らず、彼の見たものに向かってひたすら邁進していく。それゆえ、常人には破天荒な行動、言動にしか思えないし、ひたすらひっかきまわしているようにしか見えないのだ。
なんの談合もなく榎木津の言わんとするところを理解してしまう京極堂も、つまりは同じ穴のムジナってわけで、彼自身がどんなに否定しても、薔薇十字探偵一味には違いない(笑)。

新刊「百器徒然袋―風」がでたので、ついでに再読したのだが、このシリーズは外伝というより、自己パロディ的な要素が強く、登場人物の性格もコメディ的に描かれている。
とにかく弾けっぷりが抱腹絶倒。下僕たちが否定しつつも探偵に魅惑されてしまっている、人の心のままならなさに苦笑しつつ、「下僕」の類である読者の境遇を存分に楽しんでしまったほうが勝ちというもの。「神」にしか解決できない事件がここにある。






百器徒然袋―風 2004年7月5日/講談社ノベルス

先の『百器徒然袋―雨』でシリーズ評をやってしまったので、こちらはさらりとご案内。
「調査も捜査も推理もしない。ただ真相あるのみ! 眉目秀麗、腕力最強、天下無敵の薔薇十字探偵・榎木津礼次郎」シリーズ第二弾の中篇連作集。前作同様、配線工事の図面引き・本島の視点で描かれている。
京極堂の「妖怪シリーズ」のような陰惨で複雑怪奇な謎は無く、むしろ「日常の謎」的事件を発端とした勧善懲悪爆笑ストーリーである。薔薇十字探偵一味唯一の常識人、京極堂(本人は頑なに否定しているが)の謎解きは早期に済まされ、探偵サイドが事件の黒幕に対してトラップを仕掛ける展開が面白い。前作を読んでいる方には今更説明不要だろうが、とにかく榎木津が暴れ回る。今回のキーワードは「にゃんこ」だ?!

収録作は、まねき猫が発端で明らかになる亡霊とは? 榎木津の支離滅裂・傍若無人ぶりが冴える「五徳猫」、榎木津の異能を逆手に前件の復讐を企てる霊感探偵・神無月鏡太郎と榎木津が対決する「雲外鏡」、呪いの面の謎と周囲で巻き起こる盗難事件を絡めた「面霊気」の三作。
本島(僕)は自らを戒め、二度と榎木津に関わらぬと決心しながら、毎回巻き込まれているあたり、往生際が悪いというか……いい加減に諦めたまえ、君。
今回は榎木津パパも登場。噂の変人ぶり、もといすっとぼけたダンディぶりを披露する。
ラストで榎木津が「神」らしからぬ行動をとるので、もしやシリーズ終了かとちょっとドキッ。
なんと下僕を慰労しようというのだが、そこは榎木津、彼らの慰めになるのかどうか(笑)。
事件は少々小粒の感があるが、『陰摩羅鬼の瑕』でおとなしめの榎木津に消化不良気味だったファンにお勧めする。




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