陰摩羅鬼の瑕 2003年8月/講談社ノベルス
『塗仏の宴 宴の始末』から5年ぶりのシリーズ新刊は、『百器徒然袋−雨』で話題に出ていた「白樺湖の事件」である。でもシリーズ中の時間では『姑獲鳥の夏』からわずか1年しか経過していない。人が事件を吸い寄せるのか…いや、事件が人を選んでいるのかもしれない(笑)。
白樺湖畔に、無数の鳥の剥製で埋め尽くされた「鳥の館」と呼ばれる洋館がある。館の主人である元・伯爵の由良昴允が妻として迎えた女性は、結婚式の翌朝必ず殺されるという悲劇が続く。5度目の婚姻を前に、伯爵は探偵に妻となる人の護衛を依頼する。
その探偵が、(よりにもよって)かの榎木津礼二郎。今回の彼は目を患い、体調は絶不調。なし崩しに館に同行することになってしまった作家の関口巽は戸惑うばかり。関口の困惑を煽るかのごとく、榎木津は館に入るなり「そこに人殺しがいる」と誰にともなく宣言する。
彼らは花嫁を護ることが出来るのか、そして京極堂=中禅寺秋彦は憑物をどう落とすのか――。
本作は、シリーズキャラの関口巽、伯爵こと由良昴允、そして「鳥の館」の過去の事件に関わった元刑事伊庭銀四郎の、複数の「私」による一人称語りで構成されている。京極作品の前作にもある通り、この手法がクセモノ。つまり、わずかな言葉の齟齬や曖昧な記憶、経験や知識の誤謬を重ねて仕掛けられた心理トリックが基本にある。だから「私」が語る内容はすべて懐疑的に受け止めなければならないので、久しぶりに脳みそを使った気分だけど、もちろんそこは京極氏、そう簡単にボロはださないやね。
内容的には序盤から結構大胆に伏線が張られているので、さほど意外性は感じられない。私自身1/3ほど読んだところで物語の8割がたは想像がついてしまったし、民俗学的知識が多少あれば中盤の京極堂の会話で見当がつくだろう。しかしマルティン・ハイデッガーの「実存主義」と「儒学」という異質な思想を混ぜ合わせ、独自の理論へ導き、さらに事件の動機へと展開させていく京極氏の語り芸は相変わらず巧みだ。
作品を貫くテーマは「儒教」。その「死生観」の捉え方を絡め、実は京極氏は、作中で提議している、探偵小説はなぜ「殺人」を特別なものとして扱うのか、という問題をすくい上げようとしていたのかもしれない。こういう読み方をすると、読書空間のなかで生まれ育った特異なキャラクターもそのための道具立てになってしまうところだが、妻に先立たれた元刑事・伊庭の「死生観」と絡めることで重厚な厚味を引き出している。
そんなわけで、本作は今までの京極堂シリーズとちょっと肌触りが違う。事件そのものよりも特異なキャラの存在感の方が印象深く、このシリーズに共通する重厚かつ錯綜するような仕掛けが少々物足りない。でも、なんといってもメインディッシュは京極堂の憑き物落とし。滔々と説得され、納得させられてしまう快感がいい(笑)。
ところで私は、にぎやかしい躁探偵・榎木津さんのファンである。今回は一時的とはいえ盲目となってしまうこともあって、あまり活躍(引っ掻き回し?)の場がなかったのが残念。とはいえ、榎木津さんはどこまでいっても榎木津さん、今回はちょっとしんどそうだけど、そんな彼もいいかも〜。
ついでながら、いつもちょっとしか登場しない変態な里村監察医の隠れファン――堂々と言えない後ろめたさがあるから――でもあったりする(笑)。
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