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宮部みゆき みやべ みゆき


■ 理由






孤宿の人 上 下
2005年6月/発行 新人物往来社

「ほう」という小さな女の子が冒頭から重要な役どころで登場する。
「ほう」とは「阿呆」のほうだ。その名付けから分かるように、ほうは望まれずに生まれ、いく先々で邪魔にされながら育ってきた。体よく江戸からやっかい払いされるが、丸海藩で匙(医師)を営む井上家に引き取られる。下働きとはいえ、ほうがようやく平穏な生活に慣れたころ、井上家の娘・琴絵が毒殺されるという事件が起こる。ほうはその犯人を見てしまうのだが、事件は伏せらてしまう。
その頃、丸海藩にも大事が起こっていたのだ。江戸の勘定奉行「加賀さま」が妻子を毒殺の上、家人も切捨てた罪で丸海藩へ流刑として流されてくるというのだ。罪人とはいえ幕府から預かる以上、どんな粗相も藩にとっては存亡の危機となる。実はその犯人の身分ゆえ、琴江の死の真相も隠さなければならなかったのだ。事情が分からぬまま、ほうは下女として、加賀さまが幽閉された屋敷に押し込められてしまう。

誰にも心を開くことのなかった加賀さまだが、やがて、ほうと言葉を交わすようになる。ほうの無垢な心が、いつしか加賀さまの心を開いていく。
加賀さまはおやさしい方だ――そんなほうの思いとは裏腹に、丸海の人々は加賀殿を災いをなす鬼だと噂するようになる。やがて次々と悲劇が起こる。

はじめは舞台を讃岐に据えての「ぼんくら」「日暮らし」に似た市井物時代小説かと思いきや、武家の論理に翻弄される庶民を描く波瀾万丈の物語と言ったらいいだろうか。
鬼だ、悪霊だと言われる加賀さまの哀しさ、孤独で幸薄いほうを気遣う娘・宇佐、自らの腑抜けさを自省しつつ破滅の道を選ぶ同心・渡部一馬、そして琴絵の兄・啓一郎も葛藤を繰り返す。細やかな人物描写を重ねて、物語は周到に組み立てられてゆく。
武家の理不尽な社会制度に、がんじからめに縛られている。翻弄されていく境遇を運命として受け入れ、平静に生きていこうと努めながらも、それでもなお人は悩み、苦しむ。
泣くのは武士も市井の人々も同じだ。極度に気を遣うことにより起こる悲劇。愚かしく、そしてどうにもならないむなしさ。

夜明けの海に、うさぎが飛んでいる。

ほうの無垢な心はたくましい。その健気さが救いだ。
すべての悲しみを飲みこみながら「青く凪いだ丸海の海原」を望む、ほうの小さな背中が見えるような気がする。






日暮らし 上 下
2005年 01月 /発行 講談社

『ぼんくら』の続編。構成も前作同様、市井もの連作短編が伏線として描かれ、やがて起こる殺人事件へと展開していく手法となっている。
鉄瓶長屋の騒動から約半年後。同心・井筒平四郎、その甥・弓ノ助、差配人から植木職人に戻った佐吉、煮売屋のお徳、岡っ引の政五郎、その手下のテープレコーダーおでこという、『ぼんくら』で出会った懐かしい面々を短編エピソードで読者と再会させる。さらに、あの湊屋の複雑なお家の事情も織り込み、事件導入への背景をさりげなく印象づける。この手法がうまいなあ。

「一日、一日、積み上げるように。てめえで進んでいかないと。おまんまをいただいてさ。
 みんなそうやって日暮らしだ。」

日暮らしながら懸命に生きる市井の人々の描写は宮部さんがお得意とするところ。
特に注目されることもなく日暮らし、やがて消え行くもの――人の世はそんな積み重ねで築かれてゆく。江戸時代に生きる立場も生き方も異なる人々の日暮らしや思いは、寄る辺なく現代に生きる私たちに生きている基本を思い起こさせるのではないだろうか。そんな人々に向ける作者の視線の厳しさや温かさが心地よく、単独でも充分読み応えがある。


以下余談。
今回メインの舞台となるお屋敷がある六本木の芋洗坂は、「アマンド」(有名な喫茶店)の脇を少し下がったあたりにあり、私が若かりし頃贔屓にしていた居酒屋があったところ(場所のわりにお手頃価格の店だった)。その坂を下っていくと、かの六本木ヒルズがある。作中の芋洗坂周辺の情景描写がなんとも不思議――いや、当たり前なんだけど(笑)。






ぼんくら 上 下
2004年 04月 /発行 講談社文庫

作者お得意の江戸・深川の鉄瓶長屋を舞台に、その住人たちの日々平凡な暮らしの中に落ちる影と、離散してゆく顛末を描く、市井もの連作短編集だが、やがてそれらの事件を伏線とする長編ミステリでもある。
初めの5編は長屋の住人たちの紹介を兼ねて、ちょっとした騒動が綴られている。
第2作目で、本来は人生経験のある年配者の役割である長屋の差配人が、年齢、経験とも浅い佐吉という元植木職人に代わる。佐吉への反発もあって、その健闘をあざ笑うかのように鉄瓶長屋では次々と騒動や事件が起こり、住民たちはその都度減っていく。
ところが6作目の「長い影」はこの篇ひとつで長編小説という量感を持ち、物語は一気に時代ミステリへと展開していく。さらに、それまで短篇5作も、すべてその伏線となるという構成力には目を見張るばかり。

また、キャラクターも生き生きと際だっている。
長屋の住人は、しっかりものの後家お徳をはじめ、呑んだくれの親爺と孝行娘、いなせな若者や差配の老人等、ある意味類型的な時代小説の住人である。
しかし、のんびり気分の定町廻り同心・井筒平四郎を狂言回しに、物語の進行にしたがい、長屋の外からくる人々に焦点が向けられていく。天才美少年あり、人間テープレコーダーあり、近目の美少女といった、いかにも宮部さんらしいキャラクターの彼らと、時代小説の住人たる長屋の面々とのギャップが、不思議と自然に融合しているあたりは作者の手腕だろう。

優しくはあるが甘ったれた関係ではない長屋の人情模様と、その向こうに浮かび上がってくる歪んだ愛憎。解きほぐされてゆくその過程でも、きちんと描かれた人情の温さが心地よい。理屈ぬきに楽しく読める。






震える岩霊験お初捕物控 1
1997年9月/発行 講談社文庫

時代小説兼超能力小説兼ミステリ。
内容も字のごとし。見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるという不思議な力を持った少女、お初が、仲間とともに江戸で起こる奇妙な事件を解決する物語。

江戸深川の十間長屋で、死んだはずの吉次がその葬儀中、生き返るという事件が起こった。その後吉次は、何事もなかったように仕事に戻る。世間でこれは死人憑きだと大騒動になり、それに興味を持った当時の江戸南町奉行・根岸肥前守鎮衛は、岡引きの六蔵の妹・お初と、与力の嫡男・古沢右京之に密かに探りを入れさせることに。
そんな中、江戸の町では幼い子供を殺し、遺棄する事件が連続して発生する。調べが進むうちに、死人憑きと、幼い子供殺人事件と、さらには『忠臣蔵』の元となった100年前の赤穂浪士の吉良邸討ち入りの意外な関係が浮かび上がってくる。

お初の霊験(超能力)はエッセンス程度で、作品としては上質の本格ミステリ。
センセーショナルな死人憑き事件が、やがて全く関係なく見える事件を巻き込みながら、やがて意外な方に展開していく過程にわくわく。結末に向って伏線が見事に収束されていくあたりは快感ですらある。
登場人物も、お初はもちろん、それぞれの個性がはっきりしていていい味を出している。
特に、お初が共に行動するはめになる古沢右京之介という人物が魅力的。世間知らずのぼんぼんと思いきや、意外な所で意外な冴えを見せて面目躍如といったところ。
なによりも、事件の発端となる人物に向けられる視線の温か味ゆえに、やるせなさばかりでなく切ない物語になっているのだろう。

解説に『忠臣蔵』についての新解釈とあり、確かに斬新であるのだけど、過大に期待して読まない方がいい(と思う)。






天狗風霊験お初捕物控 2
2001年9月/発行 講談社文庫


霊験お初捕物控”第二弾。
下駄屋の1人娘・おあきが、祝言を間近に迎えたある朝、神隠しに遭ってしまう。おあきは父・政吉と仕事部屋にいたのだが、朝焼けに空が血のように赤く染まり、一陣の突風が吹き過ぎたのち、気づいてみるとおあきはもう消えていたのだ。
町方は、嫁ぎ先との落差を苦にした政吉が娘を殺したものとみて追及、政吉は自分がやったと言い残して首をくくってしまう。
お初は、算学の道場に通う右京之介とともに事件を追うことになるが、2人目の娘が神隠しに。お初の目の前でも怪異現象が起こり、さらに観音様の姿を借りた物の怪に翻弄され、調べは難航する。

シリーズ2作目となる今回も、前作と同じ人情味あふれるレギュラーメンバーが登場する。
お初たちの動きと平行して、兄の六蔵をはじめ岡っ引きや役人も現実問題として事件を追っている。それぞれの視点を持って進行する兼ね合いがいい。この間合いが、霊験(超能力)物という、現実離れした設定の物語を地に足をつけたものにしているのだろう。
神隠しに遭ってしまう娘たちにこの怪異を呼び寄せしまう心の闇も丁寧に描かれ、それがとても痛みを持って迫ってくる。
ところで今回は、重要な役割を担う「鉄」というキャラクターが出てくる。その彼がとてもいい味を出していて、物語に ほのぼのとした笑いを加味している。
たぶん彼のファンも多いだろうが、意表をついて今回の一押しは、1作目『震える岩』で家庭崩壊の憂き目にあった右京之介のお父上。偏屈で頑固なこの親父様が、すっかりお茶目におなり遊ばして魅力的である。注目度が少ないキャラなので、あえて書いてみる私……←単なるオヤジ趣味か?






蒲生邸事件

1996年 毎日新聞社/2000年10月 文春文庫


平成8年、第18回日本SF大賞作品。
平成6年2月、大学受験にことごとく失敗した尾崎孝史は、今回は予備校受験のために上京し、前回の時と同じ平河町一番ホテルに宿泊する。そこは昭和初期までは陸軍大将だった蒲生憲之の屋敷跡に建てられたホテルだった。
孝史は滞在していたホテルで火災に見舞われる。あわやというところを救ったのは、同宿していた時間旅行者の平田だった。
平田と孝史は、ホテルが立つ遥か以前の陸軍大将蒲生憲之の邸の敷地内に出現。時代は昭和11年、今まさに、二・二六事件が勃発しようとしていた。
その早朝、蒲生邸に一発の銃声が響く。歴史上では自決の筈の蒲生大将の死体の側からは拳銃が消失していた。孝史は事件の謎を探ろうとする。
しかし、本作の読みどころは謎解きよりも、平田の時間旅行者としての苦悩、そして事件を通じて孝史の成長の過程にある。

とにかく最初は孝史があまりにおばかさんで、ストーリーに入っていけず困ってしまった。いくら「超戦無派世代」とはいえ、授業で日本史を選択していた現役受験生が、二・二六事件のことをさっぱり覚えていないというのはいかがなものか。あ、だから浪人したのか(笑)。
でも、再度の時間跳躍に失敗し、平田が人事不省に陥ったあたりから物語は走り始める。
蒲生家の可憐な使用人向田ふきの空襲下の無残な死に様を垣間見た孝史は、彼女の運命を変えようと決意するが……。

時間旅行者は未来を知っている。未来からやって来た孝史にも、もちろんわかっている。
そこで問題となるのは、無事に自分がいた時代に戻れるか、更に過去に遡ってしまった場合は、不用意な行動によって歴史を改ざんしてしまうのではないか、ということ。
だがこの作品では、細かな歴史的事実を変えられても大きな歴史の流れを変えられない、と定義している。
例えば日航ジャンボ機墜落事故にしても、平田は飛行機が墜落するのを防ぐべく、爆弾騒ぎを起こす。しかしその飛行機が落ちることは防げても、別の飛行機が落ちてしまう。
タイムトリップ物でよく主題となるタイムパラドックスを放棄し、歴史は帳尻を合わせるという視点が新鮮だ。

――言っても無駄なんだ。
誰も信じてはくれない。歴史はそれを知っている。

戦争に向かいつつある国において、たとえ1人2人を暗殺したところで代わりの人物が出てくるだけで、たとえ時間旅行者が抵抗しても、所詮「まがい物の神のやることにすぎない」のだ。

今カラデモ遅クナイカラ、原隊ニ帰レ。

現代に帰ってきた孝史は、ふきとの約束を果たす。混迷の時代を誠実に生きた人々の消息とともに、ラストは胸を打つ。ほんのり幸せな気分になれる。






理由
1998年 5月 /発行 朝日新聞社

平成10年直木賞受賞作品。
荒川区の超高層マンションで一家四人が惨殺されるという事件が起きる。
捜査が進むにつれ不可解な事実が次々にあかされる。そこで殺されていた四人は、その部屋の持ち主であるはずの小糸家とはまったく無関係な人達であり、事件当時、小糸家の人々はすでにそのマンションの所有者ですらなかったのだ。小糸家とこっそり入れ替わって家族同様に暮らしていた四人も、そもそも血のつながりのない他人の集まりだったことなどが、ルポルタージュの手法をとって語られていく。

事件の顛末の一部始終を、ライターが事件の関係者をインタビューで進行する形式は、かつて有吉佐和子さんが小説『悪女について』で手掛けている。その手法を、陰惨な事件の追求を軸に、ライターの主観を交えず淡々と描写していくことで、ノンフィクション小説のような仕上がりとなっている。文章自体も硬質で、いつもの宮部作品とは違って正直なところ少々とっつきにくい。
外堀を埋めて行くかのような関係者たちへのインタビューは、最初のうちは曖昧模糊として、何が何だかわからないまま読み進めることになる。登場人物たちの生き様が語られていくうちに、やがて物語の輪郭が鮮明になって行く。しかし、犯人は途中で早々と分かってしまう。だから謎解きの楽しみはない。では作者は何を意図したのだろう。
小説の中では五つの家族模様が語られている。当事者の口から語られるその多くは、家族がバラバラになっていく過程である。一人一人に事情と感情が交錯し、事件そのものの何倍もの物語を生んでいる。人々の人物像を追及していくことで、事件周辺の人間模様、家族模様が浮かび上がってくるのだ。
そんな仕掛けが面白く、登場人物に対する同情、共感、反感など様々な感情をかき立てられながら、「家族」というものを考えさせられる。もしかしたら、それがこの作品が書かれた作者の意図であるのかもしれない。


以下ネタバレである。ミステリではないので構わないと思う:けど、嫌な方は読まないでね。


丹念に描かれていく人間模様、家族模様からは、人間の持つ暗部が滲み出てくる。
しかし描ききれていないような気がする。宮部氏の筆ならば、肝心の犯人である若者、八代祐司のもっと深部に届いていいはずなのに、物足りないのだ。
彼は暗い過去を持つ。母親は惚れっぽい女だ。そしていったん惚れるとひたすら男に尽くし、やがて捨てられる。そのため、若者の「兄弟」の父親がそれぞれに違う。彼の根底には、夫婦や家庭に対する深い不信感がある。
それゆえ若者は、彼を愛する女性が現れ、彼女が身篭っても、「俺は家庭を持ちたくない、俺の子どもなど要らない」と、女と別れる。その際、彼は彼女の親元をわざわざ訪れて、結婚はできないときちんと断る。律儀でさえあるのだ。彼はいい加減な人間ではないということになる。若者は、彼の中にある根深い不信感と、それを抱えてることに苦しみ、もがいているのだ。しかし男を愛した女は、子供を産めば心が変わるかもしれないと産んでしまう。自分こそ、彼の深く傷ついた心を癒せるはずだと信じきっている。
仮初めの家族三人を殺した彼もまた、殺されてしまう。若者を愛するこの彼女によってマンションのベランダから突き落とされてしまうのだ。
それぞれの家族模様を綿密に描写し、彼や、その彼女の心理描写も丁寧で、「家族とは何か」と考えさせる作品であるにもかかわらず、結末は肩透かしを食らった気分になった。事件のあったマンションで幽霊が現れると評判になるのだが、それが若者の幽霊だというのだ。
小説の最後で、ある関係者は、犯人である若者は結局自分本位の人間に過ぎないという言う。

「ここの人たちにとって、八代祐司は、全然異質の怪物みたいな人間なんですよ。本当はそうじゃないんだけど、今はまだそう思っていたいのね。だから、怪物は怪物にふさわしく、死んだら怨霊になって出てきて、みんなを怖がらせてくれた方が、気分的に安心できるんじゃないかしら」

つまり、若者を理解できない怪物として放り投げて、ストーリーは終わっている。
作者は何を狙ったのだろう。
理解できない存在へのそくそくとした恐ろしさだろうか。うがった見方をすれば、センセーショナルに情報を垂れ流すだけのジャーナリズムへの批判と読めなくもない。
しかし、作品の核となるべきストーリーの真の闇は、八代の胸の内にこそある。小説という形を取るならば、本当の物語はここから始まると言っていい。そのため、読了後になんとも物足りなさを感じてしまうのだ。
って、実はこの作品、書評するのがとても難しいのだった…。




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