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光瀬 龍 みつせ りゅう








幻影のバラード (上・下)

1980年6月 トクマノベルズ・1988年7月 徳間文庫/徳間書店



発行年度を見ても分る通り、これも何度目かの再読(笑)。
時間監視局支局長・青龍寺笙子を中心に、過去の歴史(主に笙子が担当する江戸時代)を改変しようとする敵や犯罪者に立ち向かうという、”時間監視局”シリーズ。
このシリーズは、江戸期の様々な文献の中から不穏な「素材」を探し出し、その裏に隠された真実を探り出していく、という手法で進行する。
今回は、俗に「振袖火事」と呼ばれている「明暦の大火」がターゲット。

接点のない4人を調査員に抜擢するところから物語は始まるという、他のシリーズ作品とちょっと様子が違っているのは、新聞連載として発表されたかららしい。
うだつの上がらないサラリーマン、平凡な主婦、女子高生、ヤクザの抗争に関わって警察に追われるチンピラと、各人の生活を丁寧に描きつつ、それぞれの人生に、この作品では脇にまわっている時間監視員の笙子、元、かもめの3人が絡んで、ひとつの物語へと繋がっていく。

今回の彼らの敵が、時間密航者でもなく、未来を変えようと企むものたちでもなく、異星人というのも大きな違い。異性人たちが、人間や社会がのどかであった過去にさかのぼって侵略し、次第に現代までも手中にしようとする。その「過去の侵略」が新鮮だった。
笙子たち時間監視員は、実史にある「明暦の大火」を利用しての異星人の侵略を阻止するのだが、そのシーンが圧巻。

焼死はすでに二万八千余を数えていた。
だが、この数ではまだまだ不足だった。
笙子は、焼死体六十万を欲していた。

と、なんとも凄まじい。
「明暦の大火」は多くの作家が題材に使っているが、作中には光瀬氏の戦争体験が挿入され、その描写は凄惨で迫力がある。終章の一つ前の章タイトルには、「みなごろし」とつけられるほど物騒である。だが、殺戮を行う側を応援しちゃえるくらい無理なく読めてしまうのが不思議な感じ。うーん……現在だったら新聞掲載は無理だったかもしれない。
”時間監視局”シリーズは『所は何処、水師営』(87年/角川ノヴェルス)のほか、「飛び加藤」など短編に入っている。






百億の昼と千億の夜
光瀬 龍/コミック版・萩尾望都

初出/早川書房SFマガジン1965.12号〜1966.8号/日本SFシリーズ11 早川書房1967.1/早川文庫 早川書房1973.4.15/角川文庫 角川書店1980.10.6
コミック版/週刊少年チャンピオン(秋田書店)1977.34号〜1978.2号/秋田文庫 1994.4



東洋思想をベースに、原始の昔から人類が絶滅する遙かな超遠未来にまで、壮大なスケールで語られるSFファンタジー。
三葉虫の泳ぐ原始の海、古代アトランティス、インドの釈迦国、聖地エルサレム、そして廃墟となった古代都市「TOKYO」、アスタータ50。その遠大な歴史に見え隠れする「絶対者」の影。
我々ははなぜ生まれてきたのか? なぜ滅びなくてはならないのか?
この謎を追って阿修羅王・シッタータ(釈迦)・オリオナエ(プラトン)の3人は惑星開発委員会を操る『シ』に挑む。そこに立ちはだかるナザレのイエス。だがナザレのイエスも『シ』に翻弄される存在でしかない。
やがて阿修羅王たちは知る。

神は全ての生命を滅ぼすために存在していた――!

そして永劫の門より出現した弥勒は、阿修羅王、シッタータ、オリオナエを導いた存在=『シ』に敵対する存在を探ろうとする。『シ』は世界を滅亡に至らしめる大いなる存在でありながら、さらなる「存在」をも感じていた。奇しくも、弥勒の感じた存在は、戦いの意味を求める阿修羅王たちも感じていた「存在」でもある。
その「存在」を求めて<D>座標に向ったはずの阿修羅王、シッタータ、オリオナエの三人は虚無空間に閉ざされてしまう。さらにそこから脱出する際に、彼らのプラス・エネルギーと虚数空間のマイナス・エネルギーが接触、凄まじいエネルギーが発生し、一つの文明が消滅する。
阿修羅王だけが次の場所に転移し、そこでおのれを創造した存在と出会い、全ての真実を知る。すなわち、世界は永遠に続く――そして永遠に滅び続けることを。
それは阿修羅王の戦いに終わりはないということだ。絶望の中で阿修羅王は問う。

わたしの戦いはいつ終わるのだ……?

だがそれに答える者はない。阿修羅王の前には、戦い続けなければならぬ宿命と、「百億の昼と千億の夜」――永遠に連なる時間だけが広がっているのだった……。


学生時代に読んだとき、この遠大な物語に感じたのはひたすら絶望と滅びだった。
「滅ぼそうとする者」と「抗おうとする者」の果てしない対立は、抗う者達の敗北に終わる。それは約束された敗北なのだ。全ての文明は「滅びることを前提として」構築されていたのであり、文明が誕生する以前から「約束された滅び」なのだから。
絶望を抱きつつ、戦い続け、問いかけ続ける阿修羅王達を描くことで、光瀬氏が作品に求めたものを私は未だに掴みきれない。
諸行無常という仏教的な無常観だろうか。キリスト教、ユダヤ教、仏教などの宗教や、ギリシャ思想と東洋思想などによる世界観の相違から生ずる戦いと、その戦いの行き着く先だったのかもしれない。年月を経て読み返せば違ったものが見えるかも知れないと思ったが、辛うじて感じたのはその辺り。どういう読み方をしても、そこにあるのはやはり絶望と滅びだけだった。

この本を読むのなら最初からゆっくりと、とにかく投げ出さないで読んで欲しい。一見関係のなさそうな事柄が後の方できちんと繋がっていく意外性が本好きにはたまらない快感になる(笑)。

ところで、阿修羅王といえば興福寺の凛々しい少年の姿をした三面六臂の木像が有名だ。光瀬氏の中にも、やはりその立像があったのだと思う。その「性」を換えて少女の姿にした光瀬氏の意図はなんだろう。命を生み出す「性」が戦い続ける宿命を負う皮肉、それはさらに無常を突きつけているのかもしれない。(単なる作者の趣味だったりして←おいっ)

萩尾望都版ともいえる漫画バージョンでは、萩尾氏はその凛と美しい阿修羅王のイメージを壊すことなく表現している。でも個人的には少年であってほしかったかも(私の趣味ね)。
内容はほぼ原作通りに進められているが、萩尾氏なりのアレンジが随所に挿入されている。
例えば、ゼン・ゼン・シティーの首相がユダであったこと、トバツ市に於ける阿修羅王と帝釈天の問答などだが、萩尾氏の一つの解釈は原作に負けない素晴らしいエピソードになっている。





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