初出/早川書房SFマガジン1965.12号〜1966.8号/日本SFシリーズ11 早川書房1967.1/早川文庫 早川書房1973.4.15/角川文庫 角川書店1980.10.6
コミック版/週刊少年チャンピオン(秋田書店)1977.34号〜1978.2号/秋田文庫 1994.4
東洋思想をベースに、原始の昔から人類が絶滅する遙かな超遠未来にまで、壮大なスケールで語られるSFファンタジー。
三葉虫の泳ぐ原始の海、古代アトランティス、インドの釈迦国、聖地エルサレム、そして廃墟となった古代都市「TOKYO」、アスタータ50。その遠大な歴史に見え隠れする「絶対者」の影。
我々ははなぜ生まれてきたのか? なぜ滅びなくてはならないのか?
この謎を追って阿修羅王・シッタータ(釈迦)・オリオナエ(プラトン)の3人は惑星開発委員会を操る『シ』に挑む。そこに立ちはだかるナザレのイエス。だがナザレのイエスも『シ』に翻弄される存在でしかない。
やがて阿修羅王たちは知る。
そして永劫の門より出現した弥勒は、阿修羅王、シッタータ、オリオナエを導いた存在=『シ』に敵対する存在を探ろうとする。『シ』は世界を滅亡に至らしめる大いなる存在でありながら、さらなる「存在」をも感じていた。奇しくも、弥勒の感じた存在は、戦いの意味を求める阿修羅王たちも感じていた「存在」でもある。
その「存在」を求めて<D>座標に向ったはずの阿修羅王、シッタータ、オリオナエの三人は虚無空間に閉ざされてしまう。さらにそこから脱出する際に、彼らのプラス・エネルギーと虚数空間のマイナス・エネルギーが接触、凄まじいエネルギーが発生し、一つの文明が消滅する。
阿修羅王だけが次の場所に転移し、そこでおのれを創造した存在と出会い、全ての真実を知る。すなわち、世界は永遠に続く――そして永遠に滅び続けることを。
それは阿修羅王の戦いに終わりはないということだ。絶望の中で阿修羅王は問う。
だがそれに答える者はない。阿修羅王の前には、戦い続けなければならぬ宿命と、「百億の昼と千億の夜」――永遠に連なる時間だけが広がっているのだった……。
学生時代に読んだとき、この遠大な物語に感じたのはひたすら絶望と滅びだった。
「滅ぼそうとする者」と「抗おうとする者」の果てしない対立は、抗う者達の敗北に終わる。それは約束された敗北なのだ。全ての文明は「滅びることを前提として」構築されていたのであり、文明が誕生する以前から「約束された滅び」なのだから。
絶望を抱きつつ、戦い続け、問いかけ続ける阿修羅王達を描くことで、光瀬氏が作品に求めたものを私は未だに掴みきれない。
諸行無常という仏教的な無常観だろうか。キリスト教、ユダヤ教、仏教などの宗教や、ギリシャ思想と東洋思想などによる世界観の相違から生ずる戦いと、その戦いの行き着く先だったのかもしれない。年月を経て読み返せば違ったものが見えるかも知れないと思ったが、辛うじて感じたのはその辺り。どういう読み方をしても、そこにあるのはやはり絶望と滅びだけだった。
この本を読むのなら最初からゆっくりと、とにかく投げ出さないで読んで欲しい。一見関係のなさそうな事柄が後の方できちんと繋がっていく意外性が本好きにはたまらない快感になる(笑)。
ところで、阿修羅王といえば興福寺の凛々しい少年の姿をした三面六臂の木像が有名だ。光瀬氏の中にも、やはりその立像があったのだと思う。その「性」を換えて少女の姿にした光瀬氏の意図はなんだろう。命を生み出す「性」が戦い続ける宿命を負う皮肉、それはさらに無常を突きつけているのかもしれない。(単なる作者の趣味だったりして←おいっ)
萩尾望都版ともいえる漫画バージョンでは、萩尾氏はその凛と美しい阿修羅王のイメージを壊すことなく表現している。でも個人的には少年であってほしかったかも(私の趣味ね)。
内容はほぼ原作通りに進められているが、萩尾氏なりのアレンジが随所に挿入されている。
例えば、ゼン・ゼン・シティーの首相がユダであったこと、トバツ市に於ける阿修羅王と帝釈天の問答などだが、萩尾氏の一つの解釈は原作に負けない素晴らしいエピソードになっている。
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