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馳星周 (はせ せいしゅう)

1965年北海道生まれ。横浜市立大学文理学部卒業。
出版社に勤務の傍ら、フリーライターとして書評、ゲーム評などを執筆。96年『不夜城』で作家デビューし、吉川英治文学新人賞受賞。同作品は映画化され反響を呼んだ。続く『鎮魂歌』で推理作家協会賞受賞、『漂流街』で第1回大藪春彦賞受賞。『M(エム)』、『虚の王』など話題作も次々と上梓、文芸誌でも多くの連載を抱え、さらなる注目を集めている。またサッカー通としても知られ、金子達仁氏との共著『蹴球中毒(サッカー・ジャンキー)』がある。 (HPより)


■ 虚の王







虚の王 2000年 光文社 カッパ・ノベルス

したくないことは腐るほどあった。やりたいことはなにもなかった。


内容
渋谷を舞台に十代の心の空虚を描いた長篇暗黒小説である。
新田隆弘は苛立っていた。二年前まで「金狼」というチームを率いていた一人だった。渋谷を拠点にたった四人で都内を制圧し、酒、踊り、喧嘩に明け暮れるこの世の春を謳歌していた。四人なら、何でもできると思っていた。
だが、ヤクザが金狼を傘下に置こうとしたために隆弘はヤクザの一人を刺した。報復を恐れて、残りの三人は隆弘を見捨てて逃げた。隆弘は恨みを抱きながら単身、少年院入りとなる。
その間にチームは消滅、気づけば自分は、チーム時代に痛めつけたことのある紫原というヤクザの下っ端として、覚醒剤を売り捌いている。欲しいものもやりたいこともなく、ただ腹の底に鬱屈を溜め込んでいた。
その隆弘は紫原に命じられて、高校生売春組織の存在を探っていた。その結果、渡辺栄司の名前が浮上する。学業優秀、都内随一の秀才高に通い、大学受験を控えた一介の高校生が組織を仕切っているという。
格別喧嘩が強そうでもない優男の栄司が、明らかな恐怖でもって渋谷の少年たちを掌握している様を目の当たりにするうちに、隆弘の中で燻っていた何かが蠢き始める。
やがて彼らは、栄司という少年の彼らとは全く異質な人間の虚ろな生き様に、じわじわと侵蝕され、狂気を孕んでゆく。


書評
馳星周氏のデビュー作『不夜城』は、新宿を舞台に暗躍する中国人マフィアの抗争を描き、現代の東京という街を浮き彫りにしたリアルさで話題となった。そのため、馳作品でことさら話題にされるのは、裏社会のリアルさであり、そこに繰り広げられるハードボイルドな世界である。しかし本来ある馳氏の視点は、実は「居場所を探し、足掻く者たち」にあるのではないだろうか。
たとえば『不夜城』『漂流街』では日本人社会にも中国社会にも所属できない日系中国人であったり、『夜光虫』では外国人野球チームの中にいる日本人プレイヤーが、自分の居場所を探し、苦悩にのたうちながら墜ちていく。
そこにあるのは生々しい人間の生き様である。新宿歌舞伎町も中国人裏社会という舞台も、結局は彼らが生きている環境でしかないのだ。そのリアルな描写ゆえ、歌舞伎町はすっかり恐ろしい街と日本中に認識されてしまったようだが(笑)。

さて、本書は主人公が十代の少年たちのせいか、それらの作品よりも軽い印象かもしれない。暴力や情念がドロリと絡み付いてくるような感覚ではない。
だが、乾いた恐怖、とでもいったらいいだろうか。鋭利なナイフを突きつけられるような冷たく凝った痛みがある。鬱々悶々としている主人公が、ある日突然破滅に向かって暴走してゆく馳星周世界は健在だ。

流行りの少年犯罪がテーマかと思えるが、実は本作もやはり「居場所を見つけられない者たち」の物語といえるだろう。または、今居る場所が所詮「仮初めの居場所」にすぎぬことを意識し、鬱屈を抱えながらも足掻く若者の物語かもしれない。
栄司はヤクザを刺してついた「ハク」なんて、これっぽっちの役にも立たないことを知っている。それゆえ利口に立ち回り、その裏ではヤクザよりも残忍なことを平気でする。「賢く生きていくこと」をクリアしていく様は、栄司にとって生きることさえゲームにすぎないのだろう。
誰もが自分の居場所を求めて足掻く経験がある。逆に、足掻けるうちはまだ生きていけるのかもしれない。
その足掻きさえ、栄司はゲーム感覚としてしか捉えられない。その薄ら寒さの裏にあるのは「欲望の欠如」ではないだろうか。

相変わらずの強烈な暴力とSEX、破滅へとひた走る狂気が描かれているにもかかわらず、本作は他作品とどこか手触り違う。その違いは「欲望の欠如」にあるように思う。
本来生々しい欲望こそがキャラクターを突き動かすものだ。己の欲望を満たすために他人を裏切り、支配し、あるいは排除しようとする。だが本編ではその「欲望」がみえない。
栄司は言う。

「薄いガラスでできた花瓶があるとするじゃない・・・おれは絶対壊したくなるんだ。
どんなふうに壊れるのか。壊れるとき,どんな音がするのか。想像しちゃうんだよ。
想像しているうちに,どうしても壊したくてたまらなくなる。それで,壊しちゃうんだ」

欲望が根底にある衝動にはなんらかの目的がある。だが、ここにあるのはどこにも行き着けない破壊衝動だけだ。この作品の中に描かれる暴力や犯罪は、まさにその目的のない衝動によってのみ行われる。
橋本潤子による希生殺害しかり、新田俊弘による紫原殺害も、積年の怨みというよりも、むしろ自分でも抑えの効かない暴力衝動の果てに起こる。そこには倫理も道徳もない。
それでも尚、人はその衝動が引き起こした結果を正当化すべく、自分に対して言い訳し、責任転嫁を図ろうとする。そうするとこで己の精神の均衡を保とうとしているのだろう。そして、それすら探しようもないとき、人間は狂っていくのかもしれない。

だが、初めからその理由すら求めていないとき――衝動が「単なる衝動」と認識しているとき、人は「ある力」を持つのかもしれない。およそ人間らしい感情の欠落した栄司の、倫理も道徳も介入できない「虚」な心のみが知る、恐ろしい力を――。それもまた、狂気なのだと思いたい。

さて、それでこの作品がなぜJUNE発掘隊に入っているのか、である。
それは、一言で言っちゃえば、私がJUNEを感じてしまったから(笑)。男性向けエンターテイメントとして書かれたにも関わらず、である。
隆弘と栄司の二人の間にある、陰湿で陰険なくせに微妙な関係――これはJUNEだと感じてしまったのだからしょーがない。

線の細い美少年(これもポイントかも)栄司は、気に入らないものを破壊することに何の躊躇も感情もなく、自分のやりたいことをゲーム感覚でただ遂行していく。隆弘はその栄司のキレ振りに嫌悪を抱きつつも、ある種、異様に執着をする。
仲間に裏切られ、ヤクザの使い走りをする毎日に、隆弘はどうしようもない鬱屈と虚しさを抱いている。そして、何事にもとらわれない栄司の存在を激しく否定しつつも、それは自分がなりたかったはずの存在でもあった。それゆえに隆弘は栄司に執着する。
隆弘の、この憎悪が入り混じった、一方的な片思いとも取れる執着心をJUNEと言わずしてどうしよう、ってもんである。難をいえば「愛」はないってことか(笑)。
その上、隆弘は潜在的なゲイである。その辺りにもかなりきわどいドラマがあるのだが、それは読んでのお楽しみってことで。

相変わらず闇へ闇へとひた走るストーリー、短めのセンテンスを積み重ねていく文体などは作風として完成している。ただし馳作品らしく本作も後味が悪いことは予め覚悟しておく必要がある。

余談だが、馳作品『鎮魂歌』『虚の王』に続き、『ダーク・ムーン』でも主人公は隠れゲイである。確かにホモセクシュアルというのは暗黒小説におけるインモラルな表現として有効な手段ではあるし、馳氏の敬愛するエルロイの「隠れゲイ」描写があまりに秀逸すぎて影響されたんだろうか、などと、実は真面目に考えていたのだが、3作目ともなると、もしや氏はBLファンかもー、なんて思ったりもする。本作『虚の王』にも「千春」なんてBL好みのユニセックスな名前が出てくるし、そろそろ言い訳はきかないぞっとかね(笑)。






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