ちい様からのリクエスト作品です

恋心
小川いら/2003年3月 アクアノベルズ(オークラ出版)

人を好きになることが苦手だった。


内容
大崎が京都で出会った、旅行中の美しく淋しげな青年。人の温かさに飢えたような彼に惹かれ、大崎はその日のうちに彼を抱いてしまう。名前も告げずに去った彼に再び会いたいと願うが、大崎には為すすべもなかった。
ところが、大崎が日本史の講師として招かれた大学で、2人は偶然再会する。由岐也と名乗る青年は、大学内の図書館に勤めていたのだ。傷つくことを恐れ、恋にためらう由岐也に、大崎は優しく想いを伝え続ける。いつしか由岐也は再び恋に心を開き始めて…。
静かでありながら、激しく切ない大人の恋物語。

書評
今市子さんだ! で手に取ったイラスト買い(笑)。もちろんイラストは作品の中身を象徴しているわけで、絵描きさんと作者と読者の趣味が一致すると、当然満足度が高くなる。そして今回は当たりだった。

大人のふたりの恋だから、がむしゃらさはない。互いを気遣いながら、でも心の奥には深い情熱がある。激しい出会い、そして名前も告げずに別れるも、大崎いわく「運命の粋なはからい」で再会し、少しずつ心の距離を縮めていく…という、昔から何度となく使われてきたシチュエーションなのだが、切なさが滲みでる静かな空気がとても心地よい。

恋愛小説は「ふたりの世界」に溺れるにも、その恋のあり方に読者を問答無用で巻き込めるか、納得させられるか、そしてそこにあるはずの葛藤などが浸透していく時間が必要だ。その部分をいかに描くかで、作品を濃くも薄くもする。本作はさらりと淡白な物語だが、キャラクターの造形と、彼らが積み重ねていく情感の細やかな描写がこの作品を引き締めている。そういう意味では、かわい有美子氏の『上海金魚』が連想された。

偶然が作用するエピソードが続くことが気になるところだが、出会いは偶然だとしても、関係を続け深めていく力をもたらすのは、積極的な情熱なのだろう。誰かに愛されること、誰かの温もりを安心して信じられること。それは恋に臆病になっている心に深く響くキーワードだ。
この作品はその切なさをじんわり描くから、激しくて優しい気持ちで満ちている。



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尾鮭あさみ(おざけ あさみ〉


1987年「トラブル・フィッシュ」で小説JUNEでデビュー。
圧倒的パワー、溢れるスピード感で疾走するエンターテイメントのフルコース、そして
漢語の素養の深さが、氏の作品の特徴である。この最強なる3点セットこそが、ノレ
る人からは絶大なる支持を得るも、ノレない人は徹底的にノレないサーモン・ワールド
と言えよう。そりゃもう、潔癖なほど極端である(笑)。
荒唐無稽とも見える設定に面食らい、イキがいいユーモアに爆笑しているうちに、張
り巡らされた伏線に足元をすくわれる読者も多いのではなかろうか。そしてふと気が
つくと、胸が締めつけられるほど切なくなったり、心が痛んでみたりするのだ。
代表作の「ダダ&一也」シリーズは同人誌で書き継がれている。他に「雷&冥」シリ
ーズなど。ちなみにサークル名は「オフィス・ローゼンフィッシュ」。


 舞え水仙花





リリコ様からのリクエスト作品です

「舞え水仙花」 初出1990年10月「小説JUNE」/1992年角川ルビー文庫

病んでいずして、どうして、なにが愛せよう


内容
畏れ多くも顕聖二郎真君と少年神ナタ太子を主軸とするチャイナホリックファンタジーのシリーズ物。
「七十二洞の魔王たちでさえはだしで逃げる」札つきの暴れ者ナタは、最高級の霊力の証である眉間に霊眼を持つ二郎真君と結ばれ、まことに不本意ながら人界で修行中である。荒れ道観に住みつくも、霊験を聞きつけた人々の祈りの声にナタは苛立っていた。そんな彼らの前に現れたのは二郎神に焦がれ死に、ついには花精となった藍采和(らん さいわ)。
藍はナタを恋敵と恨み、その魂を冥府に連れ去る。
ナタの魂を追うために二郎神は、自ら霊眼を剣で突き刺し、首をかき切って命を絶つ。
冥府に落ちたナタは藍の化身である蔓に犯され、快楽の果て、魂(こん)と魄(はく)とに分かたれてしまう。
のたうつナタの魂の危機を救ったのは弥勒菩薩(マヤトレーヤ)であった。
ナタは、恋焦がれるあまり気のふれた藍の「正気」を追って死者の想いが帰る街である鬼市へと向かう。
一方、二郎神もまたナタの魄を追って鬼市に辿り着いていた。2人は合流を果たすも、ナタは己れの魄を追い、二郎神は藍と対峙する。
己れの内に魄を取り戻した瞬間、ナタの烈しい生命は大音響と閃光を放ち、藍が根付かせた花々は消えてしまう。
どこにも居場所を見つけられぬ己れに絶望した藍は二郎神の腕の中で青白い花びらと化し、消えてしまうのだった。


書評
作者紹介に書いた「三点セット」が炸裂しています(笑)。
良きにつけ悪しきにつけ(考えなしかも)一途なナタは可愛くて淫乱だし、二郎真君は頼りがいがあるけど意外とけなげだったり、モラトリアムな正体を暴露する藍は別嬪さん。
そして絢爛たる(暴走する)イマジネーションに圧倒されているうちに、ふと藍采和の漏らす哀切な呟きに胸を突かれます。

(願いをもつ者、みな病んでいる。私と同じ狂気でなくば――)
  花に狂って常世を求め、それとも修羅場に愛を見る?

藍にとって丹精した美しい花々は己れの居場所の象徴であり、自身の存在する意味すらもそこにあります。二郎神への執着が恋ではないと気づいたとき、藍は「どこにも根づけぬ」己れをさらに追い込んでしまいます。
藍のこの呟きは心臓が痛くなるほど孤独な魂の絶叫でしょう。哀しいね。
でもこんな感想なんて尾鮭作品には必要ないのではないかしらん。
それこそ分かる人だけ分かるノリ、イキのよさを、爽快と感じるか居心地悪く感じるかかは、皆様の感性におまかせするとして――二郎真君をはじめ、私の持つ道教の神様のイメージをきれいさっばりと打ち砕いて下さり、しばし途方にくれたことを思い出します(笑)。
シリアスのようでコミカル、コミカルのようでシリアスなエピソード、そのたえずどこか脱臼しているようなドライブ感がたまりません、はい。

※なお、作中では「ナタ」は漢字ですが、色々やってみたけれどパソコンには入っていないようです。 やむなくカタカナで表記しましたが、ご了承ください。




 

小沢淳(おざわ じゅん)


196x年生まれ。天秤座。A型。趣味は野球観戦、TVゲーム。
1991年 金と銀の旅(ムーン・ファイアー・ストーン1)でデビュー。
少女向け小説ということでさらりと読みやすい文体だったが、次作品『千年王国ラレン
ティアの物語』シリーズ(角川スニーカー文庫)では雰囲気が変わっていて驚いた思
い出が…(笑)。
ジャンルとしてはファンタジーだが、ミステリタッチの作品もある。
代表作として『ムーン・ファイアー・ストーン』『ラレンティア』『アキラ・プラーナ』各シリー
ズなど。


 ムーン・ファイアー・ストーン シリーズ






「ムーン・ファイアー・ストーン」 講談社X文庫ホワイトハート

正式名称は『テイルズ・フロム・サード・ムーン』

『ムーン・ファイアー・ストーン』シリーズ
1,金と銀の旅(1991年4月)/2,銅の貴公子(1991年5月)/3,極彩の都(1991年6月)
4,月光の宝珠(1991年8月)/5,青い都の婚礼(1991年10月)
女神の祝祭日 (1991年12月)
魔術師の弟子 上 (1992年2月)
魔術師の弟子 下 (1992年4月)

『ムーンライト・ホーン』シリーズ
1,一角獣の道(1992年7月)/2,月下の出航(1992年9月)/3,星と闇の王(1993年1月)
4,海の真珠(1993年4月)/5,金色の少年(1993年9月)/6,茜の大陸(1994年4月)
7,神聖王国の虜 (1994年11月)/8,密林の聖獣(1995年6月)
深緑の騎士 (1993年7月)
石像はささやく(1997年7月)

全て絶版になっていますが「小沢淳☆公式ホームページ/MoonCafe」で私家本の通販しているそうです。→http://www.t3.rim.or.jp/~moontime/


内容
通称「金銀シリーズ」、「金銀諸国漫遊記」と呼ばれている。
世界はかつて三つの月を持っていた、しかし今では黄金と白銀の二つの月しか持たない。
この地を旅する、金髪のリューと銀の髪を持つエリアードの二人の青年がこの物語の主人公である。その失われた第三の月こそが、彼らの生まれた地であった。
このシリーズでは長編・短編を織り混ぜ、月のごとき美貌の二人が旅先で出会う様々な出来事を綴った耽美系ファンタジーシリーズ……ヒロイニックではないと思う。


書評
ティーンズ向けだからというわけではないが(ティーンズも侮れない昨今)さらりと、葛藤なく読める諸国漫遊記(笑)。
実は、この作品はJUNEという意味ではなく、JUNE史という意味で果たした役割がかなり大きい気がするので紹介させていただく。
明るくて綺麗でリアリティは一切ないホモセクシュアルを、堂々と少女向け小説で書いてしまったことで、当時、いわゆる耽美といわれていたジャンルを当たり前のBLという意匠に押し上げてしまった作品である。
榊原姿保美氏などが「JUNE」の中で暗くひっそりと(笑)やっていたものを、白日の下にさらけ出し、一般的(メジャー)なものにしたわけで、この作品のヒットにより、その後耽美物中心の角川ルビー文庫まで誕生させたといって過言ではない。
当時から美少年同士の絡みは確かに少女たちに受けていたけれど、アナル・セックスの描写まで出てくるジュヴナイル小説はこれまでなかった。
もちろん作品には男同士の激しいセックスシーンはないものの、「同性愛はアブノーマル」という葛藤はみられる。
ある意味で革新的ではあったけど、現状を考えると、こうまであらか様になったのでは少々面白くないと感じるのは、たぶんかつてのJUNEファンではなかろうか。
そういう意味で分岐点的作品なのであり、当時、耽美系には珍しかった伸びやかな明朗さが新鮮で私自身は好きな作品だった(じゃなければ全巻読んでないって)。

余談であるが、悩んだのは、一般的には女性的容姿のエリアードが「受」で、基本的に女好きなリューが「攻」だと思うのだが、物語が進むにつれ、文脈の微妙な言い回しからはどう考えても「逆」のように受け取れてしまうことだった。もしかしたらリバーシブルだったのか?
だとしたら、その意味でも革新的だったかもしれない(笑)。





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