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塩野七生 しおの ななみ







緋色のヴェネツィア−聖マルコ殺人事件

1987年週刊朝日連載、1993年朝日文芸文庫


権謀術数が渦巻く地中海世界を描いた、ルネサンス歴史絵巻第1部。
3部作の 『緋色のヴェネツィア』『銀色のフィレンツェ』『黄金のローマ』は、16世紀前半、超大国の脅威に翻弄される、 ヴェネツィア・フィレンツェ・ローマの三都市の物語で、現在はイタリアの3つの都市だが、貴族社会のヴェネツィア、メディチ家が権力を握るフィレンツェ、宗教のローマは、当時それぞれ別々の国。作者曰く、主人公は「都市」なのだそうだ。

ヴェネツィアの名門貴族マルコ・ダンドロを狂言まわしに、ヴェネツィア共和国の大きな歴史のうねりを描いている。
ある投身自殺現場からこの物語は始まる。この謎には、国家の存亡、野望、秘密の愛など、さまざまが思惑が交差していく。

物語の舞台となっている1520年代後半のヴェネツィア共和国は、東にオスマン=トルコ、西にはスペインとフランスが虎視眈々と狙い、そして北にはオーストリアが控えているという、微妙なバランスの中にあった。
ヴェネツィアの名門ダンドロ家の出身でヴェネツィア政府の中心にいるマルコ・ダンドロは、ヴェネツィア元首(ドージェ)アンドレア・グリッティの息子で幼馴染みのアルヴィーゼ・グリッティと久しぶりに再会する。アルヴィーゼはオスマン=トルコの首都コンスタンティノープルで手広く商売をしており、トルコの宰相イブラヒムを通じてトルコ政府とも強い繋がりがある。
通商で生きるヴェネツィアは、トルコとの友好関係をなんとか維持するべく、グリッティの密命を帯びたアルヴィーゼを助けるため、マルコをコンスタンティノープルに派遣する。
結果は歴史が示す通り、キリスト教国であるヴェネツィアはスペインと協定を結ばざるを得なくなり、トルコとの戦闘に突入するのだが、物語は、アルヴィーゼの敗北と恋人リヴィアとの悲劇、マルコと遊女オリンピアの出会いを織り込み、史実と創作とを混在して、展開していく。

「全くの創作である主人公2人以外は、殆ど史実である」と著者が書き記している。登場人物、出来事、制度、風習などの記述がリアルで、楽しみながら歴史の詳細が勉強できる。
史実物というと堅苦しく感じるかもしれないが、「夜の紳士達=警察」「聖マルコの鐘楼は、外国重要人物の牢獄」等、事実の説明にもスリリングな語り口。
共和政治のドージェ(元首)が如何なるものかから、「商船の石弓兵は上流階級の息子がなる」とか、「未婚の娘は公式の場に出られない」「同性愛者が広まるのを心配した政府が、娼婦や遊女には乳房をあらわにする事を奨励した」(!)、「トルコのスルタンは、妻が敵の捕虜になっては困るから正式に結婚してはならない」などなど、目が点になったり、ウロコが落ちたり、好奇心を満足させられながら物語が展開していく。
ちなみに創作された主人公とは、若きヴェネツィアの貴族マルコと、ローマから逃れた謎の遊女オリンピア。屈折具合がちょっと危うい、魅力的なアルヴィーゼは実在した人物らしい。各国家の仕組みもあるのだろうけど、昔の殿方はダイナミックかつ繊細で素敵だわ〜(笑)。

尚、タイトルに「殺人事件」とあるが推理小説ではない。殺人事件の方は物語の導入部にすぎず、メインの話はこれをきっかけにはじまる。陰謀あり、悲恋ありの絢爛たる歴史絵巻だ。







銀色のフィレンツェ−メディチ家殺人事件

1993年11月 朝日文芸文庫


ルネサンス歴史絵巻第2部。タイトルの「銀色」は「銀色のアルノ、黄金のテヴェレ」と詩人が歌ったことによるのだが、アルノとはフィレンツェを流れる川の名前。
今回の舞台は『花の都』を由来とするフィレンツェ。前作『緋色のヴェネツィア』で共和国の公職追放3年間の処分を受けたヴェネツィア名門貴族・マルコ・ダンドロは、旅先に選んだフィレンツェで再び陰謀の渦に巻き込まれる。

史実であるロレンツィーノの「アレッサンドロ公爵殺害事件」がきっかけとなり、フィレンツェが絶対君主制国家へと変貌していくのだが、ロレンツィーノもアレッサンドロ公爵も、メディチ家の一族。メディチ家がフィレンツェを支配することで芸術が保護され、結果的に大いにルネッサンス文化が栄えていく。
また史実では、アレッサンドロ公爵がロレンツィーノに暗殺され、ロレンツィーノのはとこであるコシモが公爵家を後継する。さらに、このコシモがトスカーナ大公国を樹立することになるわけで、ひとつの殺人事件が歴史に大きな影響を及ぼすわけだから、なんとも皮肉なもの。
メディチ家はルネッサンス芸術を育てた功績はあるが、フィレンツェを権力者による封建的な社会構造としてしまうため、1作目のヴェネツィアに比べて民主性、平等意識などは遅れ、社会的に閉塞感があったようだ。

この陰謀渦巻く世界に色を添えるのが、マルコとオリンピアのロマンス。彼らの目を通して詳細に描かれるフィレンツェの街並みや日常生活が、ストーリーに厚みを持たせている。
メディチ家によってルネッサンス文化が花開き、その衰退とともにスペインの力を頼るようになり、やがてフィレンツェの国家としての主体を失っていくといった程度の理解でも大丈夫。史実に基いた無駄のないストーリー展開で読みやすい。また、ルネサンスを代表するボッティチェリの絵画やメディチによって集められた古代遺産、ラッファエッロの首飾りの優れた技巧などが紹介されたり、「ヴィーナスの誕生」についての詳述もあり、芸術面でもちょっぴり賢くなれた気分にも浸れる(笑)。






黄金のローマ−法王庁殺人事件

1995年 朝日文芸文庫


3部作最後の舞台は「永遠の都」ローマ。
1537年夏、ヴェネツィア貴族・マルコ・ダンドロが、愛人である遊女オリンピアと訪れたローマは、ルネサンス最後の法王と呼ばれる名門ファルネーゼ家出身の法王パウロ三世が治めていた。息子のピエール・ルイジ・ファルネーゼは教会軍総司令官、孫は枢機卿と、当時のローマはファルネーゼ家が絶大な影響力を持っていた。ローマはオリンピアの出身地でもある。
マルコがオリンピアを通じて知り合うこのファルネーゼ枢機卿は、実はオリンピアとピエール・ルイジ・ファルネーゼとの間の息子だった――と、エピソードを積み重ねていく物語の前半は、ローマという国際都市やその周囲の描写である。

国際都市=単身赴任の外国人が多い=春をひさぐ仕事をする女性の供給が多いというわけだけど(いつの世も殿方はしょーもないね)、宮廷人の女性形である高級遊女と、肉体で仕事する娼婦の違いや、ファルネーゼ家の支援を受けて活躍していたミケランジェロが「最後の審判」を製作する過程、カピトリーノの丘に1tもあるマルクス・アウレリウスの騎馬像を運ぶ様子など、時代描写や細やかな言葉遣いは、まるで自分がタイムスリップしてその場に立ち会っているような臨場感に溢れている。

ところが物語の後半、ヴェネツィア、スペイン、法王庁の連合艦隊がプレヴェザの海戦でオスマン=トルコに敗れ、事態は急転する。
一度はローマに残り、オリンピアと正式に結婚することを決意したマルコだったが、ヴェネツィアから召還され急遽帰国することになる。だがヴェネツィアに帰れば、貴族であるマルコが遊女と正式な結婚をすることはできない。それでもオリンピアはマルコについて行こうと決心するのだが、マルコとの正式な結婚を理由にオリンピアと別れることを認めたピエール・ルイジ・ファルネーゼが激怒して駆けつけてくる。マルコとオリンピア、二人の恋は成就するのか?

この海戦に敗北したことで、ヴェネツィアはやがて衰退していくのだが、『すべての国の歴史は、もっとも華やかに見える時期こそが「終わりのはじめ」であったことを実証している』と著者が述べているように、この3部作はヴェネツィア共和国の繁栄と華麗なイタリア・ルネッサンス文化が終焉へと向かう様を描いている。

タイトルの「殺人事件」は、推理小説的意味合いの事件ではない。だが、マルコとオリンピアにとって重要な意味がある。二人が歩いた街並みや、愛を紡いだ家、そしてローマ人の精神の礎ともなっている多くの古代遺跡など、生き生きとした描写に魅了される。
そして、3部作にわたって微塵も揺るぎない壮麗さは驚異だ。




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